福岡市内から40分ほど車を走らせた場所にある、久留米市北野町。福岡市内の喧騒やビル街の影はめっきりとなくなって、のどかな田園風景が広がるこの町に居を構えるのは、200余年の歴史が刻まれた老舗酒造、山の壽酒造株式会社です。近年は元来の日本酒の製造だけでなく、若い方にも楽しんでいただけるようリキュールの開発に取り組んだり、日本酒のパッケージをデザイナーさんにお願いしたりと、商品や制度面の改革にも取り組んでおられます。
日本酒の製造現場に新たな風を吹き込み続ける山の壽酒造。今回は、2017年に同社の8代目として代表取締役社長に就任して数々の改革を行った、片山 郁代社長にお話を伺いました。
(インタビュー:小野澤、葛谷、岡田)
「私には姉と弟がいるのですが、もともとは弟が後継者になる予定で、ずっと『あなた(弟)が継ぐのよ』と教えられて育ってきました。弟は東京農業大学の醸造科学科へ進学しましたが、この業界に興味がなく、『やりたくない』と言って後継者にはならなかったんです」
そのかたわら、片山社長のお姉さま、そして片山社長は、「お嫁に行くように」と言いつけられて育ちます。片山社長は、幼少期の頃の印象に残っているエピソードを以下のように語ってくれました。
「私がまだ小学校5年生だった頃、『あなたは4年制の女子大に行くのよ』と進路を諭されたことがあって。子供ながらに疑問に思って『どうして?』と質問したら、『お見合いに有利だからよ』って言われたんです」
その後、4年制の女子大に進学した片山社長。しかし、厳しい門限や家の決まりごとに辟易していたと言います。
――いわゆる「お嬢様」のようなご家庭というか。
「うーん…お嬢様というか、親が怖かった。何をしても親が怖くて。アルバイトがしたいと思っても、門限が21時だったから20時くらいまでしか働けなくて…笑」
――すごく難しいですね笑
「そう、すごく難しい。でも、そのなかでも『自分に足りないものを学べるアルバイト』を探していました」
ちょうどその頃、ひょんなことから片山社長は茶道教室に通うことになります。茶道の厳格なマナーを学ぶうちに、先生方への話し方やお礼の方法を知らない自分に気づいて、ある選択を下しました。
「自分に足りない、先生方やお客様に対しての接し方が学べるアルバイトがしたいな、と思って、百貨店にアルバイトに行ったんです」
百貨店でのアルバイトを経験する中で、片山社長は改めて自分はどんな仕事がしたいのか、と自問自答を繰り返します。これまで姉の就職後の話を聞いたりする中で「仕事って楽しくないんだな」というイメージがあった片山社長。しかし、アルバイト先の諸先輩方と関わる中で、その認識は改められることになります。
百貨店でのアルバイトを通して得た気づきを、片山社長は次のように語ります。
「作業ではなくて、自分が成長できる『仕事』がしたいんだ、と気づいたんです。それで、私はブライダルの仕事がしたいと思って。父が紹介してくれた会社も『行かない』と断って、ブライダルの会社に就職しました。『絶対に家から通える会社にしなさい』と言いつけられていたんですが、入社の一週間前に『実は寮に入らなくちゃいけないの』と伝えたんです笑」
――えぇ、すごいですね…。
「でも、そこからがすごく楽しかったんです。初めて友達と夜遅くまでお酒を飲んだり……」
――23歳にして。笑
「そう、23歳にして。笑」
門限やきまりがない生活を堪能していた片山社長。同時に、入社した会社は実力主義を貫いており、年齢に関わらず結果を出せば昇進できる風土だったと言います。
「ブライダルの仕事でいいなって思うのは、100%で当たり前、120%で新郎、新婦様から『ありがとう』と言っていただけるところ。きつかったこともあるんですが、その分、お礼を言っていただけるのがとても嬉しかったんです」
営業のノルマなども課される中で、改めてお客様への対応などを学んでいった片山社長。そんなある日、思いもよらないところで日本酒との再開を果たします。
「ある時、みんなでお家に集まってご飯を食べることになって、お酒の買い出しに行ってくれた子が日本酒を取り出したんです」
――なるほど。
「それを見た友人の一人が『誰? 日本酒なんて買ってきたの。誰が飲むの?』って言ったのを聞いて、『あぁ、そうなんだ!』 って」
その出来事がきっかけとなって、みんなが日本酒に対して抱いている印象に改めて気づいた片山社長。価値観のギャップに対して、片山社長は一つの答えを見出します。
「私は、みんなが日本酒に対して抱いている価値観を変えられる立場に生まれてきたんだなって気づいたんです」
それから、家業である山の壽酒造に少しずつ興味を持っていった片山社長。それでもすぐに後継者として名乗りを上げたわけではありませんでした。
「ある時、会社の社長から伊万里支店への研修を指示されて。伊万里に行ってみたら、支店を挙げて訪問営業をしていたんです」
――ブライダル業界で、訪問営業ですか…!
「そうなんです。でも、ピンポンを押すのが怖くて…笑」
それでも、片山社長はマインドセットを入れ替えて、訪問営業に体当たりで臨んだと言います。
「100件回ろう、と思って。とにかくピンポンを100回押すことを決めたんです」
――すごいですね…。
100件の訪問営業をこなして、伊万里研修を終えた片山社長。それから、休みの日に実家である山の壽酒造に帰った際、社内の光景に違和感を感じるように。
「社内のみんなが椅子に座って、新聞を読んでいるんですよ。ずっと」
――新聞、ですか。
「新聞に何が書いてあるの、って思って。何気なく皆さんに『私も最近少しずつ営業とか始めているんですけど、みなさんって月の数字とかどんなふうに管理しているんですか?』って聞いてみたんです。そうしたら数字の管理を誰もしていなくて」
社長がしている、という返答もありましたが、「社長が数字の把握をしているようには見えなかった」と片山社長。その後のやりとりをこう振り返ります。
「ある意味『何もしなくていい』という自由な体制に違和感を覚えました。経理状況を見せて欲しいと頼んでもはぐらかされてしまって…。それで、ちょうど日本酒の人気が下火になっていたこともあり、先代から「廃業しようと思っている」という意向を告げられたときに、山の壽酒造に入ろうと決意しました」
しかし、業績が低迷していたため「入社する」という申し出を止められてしまいます。
「入社したい、という意向を伝えたときは『変な話、お給料もちゃんと払えるかも分からない。それに、今入っても”女だから”という目に晒される可能性もある』と説得されました」
その言葉を受けた片山社長は、ブライダル企業の先輩から言われた「ある言葉」を思い出したといいます。
「『ちょっとバカなくらいがちょうどいい』って大好きな先輩に言われたことを思い出したんです。まだ26歳だし、派遣でもアルバイトでもして食べていければいいや、って思って、入りました。でもそれから本当に大変で――」
――なるほど…笑
「当時は日本酒がどうやって造られているのかすら知りませんでした。専門の大学を出ているわけでもなく、現場を見ていたわけでもなく(中略)私は私なりに「美味しい」と思うお酒にしか出会ったことがなかったので、みんなが言う「美味しくない」お酒に出会ったこともなくて。そこから、どうみんなの価値観を変えていったらいいのかな、って考えていました」
――山の壽酒造に入られてから、どのようなご苦労をされて代表になられたのでしょうか?
「もともと、跡継ぎだからいきなり役職が欲しい、とは思っていなかったんです。でもその代わりに、先代社長に『私が営業で1位になったら役職をください』と打診して、承諾してもらいました」
それから「どうやってお客様を獲得していこうか」と考えた片山社長。社内の営業の雰囲気を踏襲するだけでは数字は取れないと思い、自分がこれまで行った営業の中で良かったことを思い出していったと言います。
「そこで思い出したのが、100件回った伊万里の営業研修でした。卸屋さん、デパート、ディスカウントストアに絞って、1日3件を目標に回っていきました」
――なるほど、当時の経験が活きたわけですね。
「当時は流通経路もわからなくて、どういう風にお酒がお客様の手に渡るのかを学ぶという意味でも、回ろうと思ったんです。その結果、専門酒販店様に絞ってお酒を卸していこう、と決めました」
決め手となったのは説明の丁寧さ。他の蔵元の状況を分かりやすく説明してくれる姿勢に感銘を受けたといいます。
「『今はこういう状況だから、このあたりをターゲットにして狙っていったら良いんじゃないかな』ということまでアドバイスしてくださったのが、専門酒販店様でした」
しかし、専門酒販店にお酒を並べるためには「全国の蔵元と戦っていく」「一定以上のクオリティでないと置いてもらえない」というリスクも一緒に背負わなければなりません。また、片山社長がお酒を持っていったときには「なるほど、昔ながらのお酒だね」というコメントが返ってくるものの、製造の知識がないため詳しい説明ができないのです。当時の歯がゆさを振り返って、片山社長は次のように語ります。
「ブライダルの仕事をしていたときも、プランナーとプロデューサーという2つの職種がありました。プランナーは実際にお客様に説明をする立場で、プロデューサーはお客様に営業を行う立場です。私はプロデューサーとして勤務していたんですが、プランナーとしての経験がないため、細かい提案ができなかったんです」
専門酒販店とのやりとりの場でも、同じようなもどかしさを覚えたといいます。また、片山社長は当時のエピソードを臆面なくお話してくれました。
「酒販店さんから『片山さんのところって袋しぼりなの?薮田なの?』と聞かれたんですけど、私は『ヤブタってなに……?』という状況で。今となっては分かるんですが、当時はわからなくて、私が『薮田ってなんですか?』って聞いたときの専門店さんの顔は忘れられません。『コイツ、やべぇ……』って」
笑いながら当時を振り返る片山社長。そして、その後も専門酒販店を中心に営業を行っているうちに、山の壽酒造の運命を分ける出来事に遭遇します。
営業に精を出していた片山社長。そんな折、専門酒販店から「面白い人がいるから会ってみない?」と紹介された方が、今でこそスーパーや酒屋でもよく目にする「フルーツ梅酒」というカテゴリーを作った方でした。
――その方が、フルーツ梅酒を作られたんですか。
「フルーツ梅酒を作ってくれる酒造を探しているという話で。なかなか他の酒造が首を縦に振ってくれないと仰っていたのですが、私はそれを聞いて、面白いなと思ったんです」
当時の片山社長は焼酎が飲めませんでしたが、リキュールなら飲めたとのこと。それなら、と思いついたのが日本酒ベースのリキュールを作ること。その方に意見を求めたところ「面白そうだね」という反応が返ってきたことも手助けとなって、社内へプランを持ち帰りプレゼンを行ったと言います。
「社内からは『郁代さんの言っている意味がよくわからない』という反応が返ってきました。この方々と一緒にやるのは難しい。それなら社外チームでやろう、と」
――なるほど。
「さっそく、フルーツ梅酒を考案した方を筆頭に社外チームを作って製造に取り掛かりました」
そうして生まれたのが、山の壽酒造を一気に今の地位まで押し上げた「完熟マンゴー梅酒FURUFURU」。
お取引のある専門酒販店が楽天市場で完熟マンゴー梅酒FURUFURUを販売したところ、人気に火が付き、楽天市場の梅酒ランキングで堂々の1位を獲得。人気が人気を呼び、山の壽酒造の名前を全国に轟かせるきっかけになりました。
また、資金に余裕ができたことで、日本酒の設備投資にも資金が回せるように。
完熟マンゴー梅酒FURUFURUを販売するにあたって、どんなコンセプトでやりたいか、と聞かれた片山社長は、またも体当たりな手法で答えを探り当てます。
「本屋さんに行って、女性誌の表紙に書かれているキャッチコピーを全部見てみたんです。そこで見つけたワードが『小悪魔』でした」
さらに、ラベルのデザインを決める段階でも、片山社長の行動力と洞察力が光ります。
「雑貨屋に行ってメッセージカードの棚を見て。そのなかで一番少なくなっているものを探して、『これはいいな』というものを参考にしながら作ったのが、あのラベルです。私一人でなんでもできるわけじゃない。私は、『これはいいな』というものを集めて、つなげる力があるんだな、と」
完熟マンゴー梅酒FURUFURUの開発を通して自分の特徴を見つけた片山社長。また、相手が本当に望んでいるものを追求できるのも自分の強みだと気づきます。
「私が意識しているターゲットは女性で、これからお酒を飲む人。そこは変わらなくて、その人達が手に取ってくれるようなものってなんだろう、と考え続けた結果生まれたお酒です」
片山社長の持つ鋭い観察眼と女性ならではの共感力、そして事柄と事柄を結びつける想像力。さらに人を巻き込む熱意があったからこそ、完熟マンゴー梅酒FURUFURUが生まれ、山の壽酒造は全国でも名が知られた酒蔵へと変貌を遂げました。
家業に身を投じるや否や、思いもよらないアプローチで山の壽酒造を牽引している片山社長。しかし、思わぬ自体が片山社長と山の壽酒造を襲います。
後編へ続く。
山の壽酒造株式会社 代表取締役社長 片山郁代
1979年生まれ。環境・食・人の3拍子揃った福岡育ち。女子大を卒業後、ブライダル業界へ就職。26歳のときに山口合名会社(現在:山の壽酒造株式会社)に入社。「年に1つ改革を」をテーマに営業・総務・経理・造りを経て、創立200周年直前の2017年に代表取締役に就任。
現在は【goodtime with yamanokotobuki】をコンセプトに奮闘中。
座右の銘:「20歳の顔は自然から授かったもの。30歳の顔は自分の生き様。だけど50歳の顔にはあなたの価値がにじみ出る」――ココ・シャネル
山の壽酒造株式会社