多くの企業、特に中小企業にとっては、事業承継はリスクと考えられます。代々続く家業であっても、承継の当事者は多くの課題や葛藤を抱えることになります

今回取材させて頂いたタカラ産業株式会社(岡山県津山市。以下、文中ではタカラ産業と表記)の事業承継の流れで特筆すべき点は、家業を婿養子が継承し、かつ組織体制を何もない状態から整え、経営の舵をとって発展させてきたことです。

タカラ産業の事業承継および発展の流れを表に示すと、次のようになります。
(参考:タカラ産業株式会社HP 沿革より一部抜粋および加筆)

1966(昭和41)創業者内田光教氏によって創業
家庭用流し台、風呂、ガス器具販売店として津山市船頭町に開店
1974(昭和49)タカラ産業株式会社設立
厨房他設備の設計施工と建築請負業等を業務とする
2001(平成13)創業者内田氏は代表取締役会長
婿養子の河本義登氏が代表取締役社長に就任
2006(平成18)内装仕上工事業(リフォーム)の許可取得。事業の方向転換へ
解体工事不要で浴室を蘇らせるREVIVEの商標登録
2007(平成19)カビを根絶する工法(後のFRS工法)開始
2012(平成24)アフターアドバイザーによるOB顧客訪問
(お客様の継続対面フォロー)を開始
2015(平成27)カビを根絶する工法をFRS工法とし全国展開へ

河本氏が事業を受け継いでから地域に根ざした「タカラ産業まつり」の集客は5倍以上にもなり、5000人の方が集う一大イベントとなりました。河本氏がタカラ産業を継いだ時から比べると、建築業を取り巻く環境は大きく変わっていますが、変化に負けず、今やタカラ産業は日本国内を越えての進出すら視野に入れている状態です。

現社長である河本氏がタカラ産業を継ぐまでのドラマ、そして事業承継後、いかにして会社の基盤を整え、時代の波に合わせて事業を発展させてきたのかを今回、私たち事業承継ラボに語って頂きました。

実は最初、タカラ産業は「継ぎません」ときっぱりお伝えしていました。

婿入り先で事業を継ぐなんて、これっぽっちも想定していなくて。義父である先代と「タカラ産業やらんか?」「いやムリですから」のやりとりが何度もあったんです。ある意味、営業の原点と言いますか…

実は、私の生家が建設業で、高校を出たら生家の家業を継ぐ予定でした。そのつもりで高校の建築科で学び、卒業後には生家で働いていたのです。それがまさか、婿入りして別の家の家業を継ぐとは思いませんでした。

当時交際していた今の妻がタカラ産業の跡取り次女でして、交際1年目で先代からこう言われてしまったのをよく覚えています。

「君も長男なら分かるだろう?家業を継がないなら交際をやめてくれないか」

私も跡継ぎですから、家業を継ぐことがどういうことか知っています。嫌いになったとかではなく、互いに家業のことを考えて一度は別れたのです。でも、やっぱりしばらく経って、復縁してしまった。義父としては苦渋の選択だったとは思いますが、「君以上の男は出んかもしれん」と交際を認めてもらいました。

そうして結婚して、嫁の実家に行くと居心地がいいわけです。その都度、義父から「タカラ産業やらんか?」と声をかけられて、「いや、ムリですから」と返す。一回一回はあっさり終わるやりとりでも、積み重ねていけば気になってきます。くり返し熱をこめて誘われれば、心も傾きます
当時7人いた社員の方々全員の人となりも段々分かってきて、そうするとさらに情が湧くわけで、「自分が継がないなら、この会社はどうなってしまうのだろう」と真剣に悩むようになりました。

もちろん生家の家業を放置することもできません。幸い話し合った結果、弟が生家の家業を継ぐこととなりましたが、跡取りとして期待してくれていたのか母は泣いていましたね。父は、私たち兄弟が決めたことだから、と決定を委ねてくれました。

そうして、弟や生家との話し合いが終わってからまた嫁の実家に行きまして、またいつものお誘いになるわけです。

「タカラ産業やらんか?」との声に「やりますよ」と即答したときの先代の喜びようといったら。そのままお祝いの宴に突入でしたからね。諦めていた跡継ぎが見つかって、義父は本当にうれしかったのだと思います。 

継いだ当時は、衝撃だらけでした。ものを「作る」から「売る」仕事への意識転換も一苦労。

元々生家の家業を継ぐつもりだったとはいえ、会社とひとくくりにしても、経営者によって全くやり方が違う。本当に驚きばかりでした。

どちらがいい悪いではないのですが、実父とタカラ産業の先代である義父とでは会社経営のやり方が正反対だったのです。例を挙げると

<生家での実父の経営方針><タカラ産業での先代の経営方針>
社長は誰よりも早く出社したほうがいい社長は社員より遅めに出社したほうがいい
掃除や下準備などは経営者が率先して
行うべき仕事
社員の主体性を尊重し、1日の組み立ては
社員の自主性に任せたほうが育つ

自分なりのやり方を定めるまでは、本当に混乱しましたね。

あと、建築科でものづくりは習っていたのですが、商いを学んでいなかったので、意識のギャップも多かったです。どちらかと言えば口が悪いほうで、当時メインのお客様である卸の方々につい「買えや」なんて言ってしまうくらいでした。商いを知る同級生とかからは「今のままだと会社をつぶすぞ」という助言ももらいました。

当時はゼネコンなどの下請けの仕事が多かったですから、とにかく頭を下げて丁寧に対応しなくてはいけませんでした。いい勉強ではありましたが、やっぱり嫌なものは嫌なわけで。自分はものづくりが好きだと再認識してからは、一般のお客様へ技術を売るリフォーム業に転換していく方針を考えるようになりました

地道な積み重ねのおかげで、お客様からはリフォームへの転換に反発はされませんでしたが…

先代や社内からも反発はなかったのですが、さすがに業界内では反発もありましたね。

当時はバブルでした。建築家の方々にとっては、とにかく新築物件をたくさん手がけて売上や利益を出す時代だったのです。

そのなかで、タカラ産業は当時、他の会社の下請けとして大きな会社が引き受けたがらない仕事を請け負い、お客様からの信頼を着実に積み重ねていました。代表例はトイレの改修仕事です。汲み取り式から水洗トイレへの切換えの時代ですから、汚いし臭いので嫌がるわけです。でも、タカラ産業は全て請け負ってきました。嫌がらずに受けてきた仕事の信頼があったからこそ、タカラ産業がリフォームに乗りだしても建築業を営んでいたお客様方の抵抗が少なかったのだと思います。

工務店の方々からは反発もありましたが、リフォームをしていくことについて社内から反発はありませんでした。先代もとやかくは言いませんでした。先代が一つだけ守ってくれと言い続けていたのは『仕入れ先として「タカラスタンダード」だけは絶対に続けてくれ』ということでした。

正直言えば、やめたいと思った時期がありましたが、今思えば先代には先見の明があったし、言いつけを守ってきてよかったと思っています。

単なる利益だけ見るなら、「タカラスタンダードはやめる」の一択でした。それでも…

「タカラを日本のみんながほしがる時代が来る」といった先代は正しかった。一経営者としてタカラスタンダードのあり方から学んだことは本当に多いです。

タカラ産業の名前は、仕入れ先であるタカラスタンダード(以下、文中ではタカラと表記)から来ています。タカラの商品に対して、先代は本当に思い入れを持っていました。タカラは、商品がとても質がよい一方で、利益率が低く値引きに一切応じないという方針をとっていました。他メーカーよりも重い商品が多いので、運ぶ人件費を考えても、「ほんと、タカラは儲からんよな」と思わずこぼしてしまうくらいだったのです。他店はまず売ろうとしませんでした。

ここまで聞くとなんて会社だと思われるかもしれませんが、私はタカラから本当に多くを学ばせて頂きました

タカラの現社長は渡辺岳夫氏ですが、その先代の故渡辺六郎氏は私と同じ娘婿の社長だったのです。タカラ産業に何度も来られていますが、激動の時代を超えて、会社を発展させ続けた。そうして、タカラショールームの数は現在業界一。私にとって、本当に尊敬する偉大な経営者です。

タカラは真に「人を大事にする」会社であり、人を大事にする考え方のもとで上手にお金を使い、ファンを増やしています。「人を大事にするお金の使い方」もタカラを見習いながら取り入れていった部分です。

人を大事に「デジタル化が進めば進むほど、アナログが必要である」という考えを、大切にしてきました。だからこそ

タカラ産業ならではのリピートを生み出す仕組みが作れた。そう思っています。

インターネットが普及しだした頃、誰もが「これからはネットの時代だ」と言っていました。確かにネットは便利なのですが、ネット社会のやばさをどこかで感じていたのですね。だからこそ、「デジタルではなくアナログ」をタカラ産業は意識し続けてきました。お客様への連絡ひとつとっても、メールで終わらせるのではなく、あえて足を使い、顔を見て、お話しすることを大事にしてきました。

その最たる例が、タカラ産業で商品・サービスをお求め下さったお客様を巡回する専属の「アフターアドバイザー」設置です。地元津山に根ざす企業として、タカラ産業でご購入頂いたお客様を生涯大事にするためのシステムを作りたい、その想いから、色々な試みをくり返し、今に至っています。

「アフターアドバイザー制度」
タカラ産業の商品・サービスを購入時から20年間、専属員がアフターフォローのために一軒一軒を巡回する仕組み。20年のうちに新たな商品が購入された場合、そこからさらに20年となるため、リピート率が高く、大事なお客様と一生涯お付き合いする姿勢をとっている。専属員が巡回した報告は、全員に1週間に1回口頭でシェアされ、気づきや改善点を現場に落とし込んでいる。

継いだ当時は、社訓も理念も、朝礼すら何もない状態で、ゼロから創り上げてきました。

今のタカラ産業の体制を手探りをしながら、学びながら、全てみんなで今の会社を創り上げてきたのです。

 社員ひとりひとりが好き勝手に動ける状態だと、やはり組織としてまとまりません。そこで、まずみんなで話し合える場を作ろうと「タカラ産業人づくり会議」を導入しました。延長分の給料はどうなるのかといった反発もありましたが、必要性を感じてくれている社員もいたので、まずは同意してくれる数人から始めました。やっていくうちに浸透し、全員が話し合い共有できる場を社内に作れました。

企業の方向性を示す理念もやはり言葉として必要だと思いました。そこで、私が子どもの頃から学んできた少林寺拳法の開祖の言葉「人人人 全ては人の質にあり」に着想を得て、今の社訓である「質を高めて人につくせ」に至りました。経営理念「時代を先取りした商品と技術の開拓で地域社会へ貢献します」という言葉もあわせて定めていきました。

会社の制度を創り上げる中で色々と失敗もしてきました。その都度、みんなで改善してきたわけですが、カギはやはり「人」なのです。「人」を大事にしていかなければと心から思います。

会社の行く先も、「人」を見て決めています。目指すは津山から世界です

今後としては最終的には「FRS工法」と「REVIVE」を国外にも広めていくところまで目指したいですね。

 後継者については、タカラ産業をきちんと任せられるか、人格や能力を見つつ、期待を伝え育ててきました。本人にも継ぐ意向はあるようですし、小さい頃からの「刷り込み」の成果かと思います。

タカラ産業がこれから力を入れていくのは、FRS工法とREVIVEの展開です。

FRS工法は、単なるハウスクリーニングではありません。カビ対策の専門家を育成し、衛生環境を作る技法です。さらにREVIVEは、お風呂を解体せずに蘇らせる方法で、この二つの合わせ技はタカラ産業の強みといえます。

FRS工法は研究会を立ち上げまして、38社全国展開をしています。需要はホテルやマンションが多いですが、もっともっと広げていきたいですね。いずれはFRS工法とREVIVEの世界進出も野望です。

とはいえ、世界を視野に入れても、タカラ産業の基盤は地元、岡山県津山市です。津山の皆様を大事に地域の皆様から必要とされ続ける会社であり続けます。存在意義ある会社であり続けることが私たちタカラ産業の使命です。

今回取材にご協力下さったタカラ産業株式会社、代表取締役河本義登氏に御礼申し上げます。

タカラ産業株式会社 代表取締役河本義登氏

「心のつながり」を大切に、岡山県津山市で住環境をプロデュース。20年間の顧客アフターフォロー制度を導入し、アナログを大事にする方針を貫いている。FRS工法とREVIVEという先進的な技術の掛け合わせが強み。イベント「タカラ産業まつり」には5000人以上もの人が集まる。