戦後の混乱の時代に誕生した比嘉酒造(旧:高志保酒造)。初代が築き、2代目が広げた「残波」を、これからの時代に残しつつも、新たな泡盛のスタイルを創り伝えるべく、日々尽力されている3代目(比嘉 兼作氏)にお話を伺いました。

戦後混乱の時代に誕生した比嘉酒造

Q)比嘉酒造の歴史を教えてください。

戦後すぐの1948年(昭和23年)に、アメリカ統治下だった沖縄県において、政府が管理していたお酒の製造販売を民営移管するタイミングで地域の7つの家がお金を持ち出して酒蔵を買い取って、比嘉酒造としてスタートしたのがの始まりで、当時は高志保酒造と呼ばれていました。その後、私の祖父(初代)が1953年(昭和28年)に酒造を買い取り、地元・高志保の名から命名された「マルタカ」という泡盛を製造していました。沖縄県の日本本土復帰(1972年)のタイミングで比嘉酒造と改名し、「残波」という名前で泡盛の販売をし始め、今日に至ります。

元々は、主に地域の方々の飲まれており、観光客の方に少しお買い上げ頂ける程度の小さな商店でした。※沖縄の方言で「まちゃーぐぁー」

戦後当時、人々はお酒が飲みたくても手に入らない状況でしたので、有名な話ですが、メチルアルコールを飲んでいる人々も多くおり、失明をしたり、最悪の場合は亡くなられる人もいる状況でした。しかし、これではいかんという事で、沖縄県首里にある何百年もの歴史を持つ有名な酒蔵に「酒造り」を習いに行ったのをきっかけにして現在の「残波」という泡盛があります。初代が作り上げた酒屋は地域の人々と作った経緯があるので、沖縄返還時、地域の名前から取った「残波」というブランド名をすんなり人々に受け入れて頂く事が出来ました。

その後、1985年(昭和60年)に有限会社比嘉酒造として正式に立ち上がったタイミングで、2代目の社長が、もともと泡盛に対して人々が抱いていた「臭い・美味しくない・強い」というイメージを払拭し、”飲みやすいお酒”を造る為に一生懸命努力してできた泡盛が、本当の意味での”残波”のスタートとなります。戦後当時は、ろ過技術や資材(瓶など)も無い状況で、満足のいく泡盛が製造できておりませんでした。経済復興がされていく中で技術や資材も豊富となり、泡盛も共に育っていった歴史があります。

 

事業承継時の苦悩

Q)事業承継時の事についてお聞かせください。

2代目が初代から引き継いだ時は、有限会社比嘉酒造を立ち上げてからそこまで期間も長くなく、また会社の規模もさほど大きくなかったので、株価の移動などもスムーズに事を運ぶことができました。また、初代は既に60年近く経営していたこともあり、当時は「(年齢的にも)もう引き継がなければいけない」という状況でした。

2代目から3代目(現社長)に引き継ぐ際、当時2代目としては、60歳になったら定年し、時間を掛けずスムーズに3代目に引き継ぎたいという思いがあったそうです。売り上げも上がり内部留保がどんどん貯まっていくと”事業承継”が大変になるというのを見越しての思いだったと思います。また、借金を抱えて会社を引き継いでしまうというようなケースも沖縄でちらほら見らたため、とにかく早めに手を打ちたいという思いがあったそうです。

しかし、事業承継に関する情報が少なく、税理士に相談もせず株式を2代目から3代目へ移動をしようとしたところ、「比嘉さん、株価が1万円から100万円になったら税金払えるんですか!」と、止められたりもしました。少しずつ勉強させて頂きながら、過大役員報酬という事で税務署と裁判になってしまったりもしましたが、結果として、脱税をすることもなく、しっかりと2代目から会社を引き継ぐことができました。2代目は既に70歳を超え、完全に退職しており、仕事に口出しすることはありませんが、たまに私に「何しとるんだ。」と叱責しに来てくれます。いい関係性を築けております。

事業承継を通して、非常に勉強させられ、とてもいい経験をできたなという思いが今はあります。

 

従業員をまとめ上げるために

Q)事業承継時に苦労したことは何ですか?

私が会社を引き継いで最も苦労したのが、古参の従業員をまとめていく事です。私が入社した時には既に30年以上勤務されている従業員、自分自身が子供の頃に麴室で遊んでいた頃から働かれている従業員がいらっしゃり、沖縄の方言で言う「にぃにぃ(お兄さん)、ねぇねぇ(お姉さん)」というような感じで接していたので、そんな関係性の従業員をまとめるのは大変で、時代の流れで仕方ないのですが、退職して頂く時には非常に悲しい思いがありました。

また、従業員の60代以上が10%、50代以上が28%、40代以上が34%と若い従業員が少ないです。これは今後の課題と考えております。その課題解決や従業員をまとめ上げるためにも、ブランディングやマーケティング、企業プロミスを社内にもしっかり伝えていこうと考えています。

現在も働かれている先輩従業員の方は、僕が来ると恐いみたいで、友達になるのは夜の飲み会だけです。ある意味とても良好な関係が築けています。

 

ブランディングとマーケティング

Q)十数年前から、全国各地の居酒屋で「残波」を目にする機会があります。ブランディングで気を付けていることはありますか?

ブランディングやマーケティング、企業プロミスをしっかり掲げ、伝えていく事がとても大事と考えており、そこをしっかりできればお客様もついてきてくれると信じています。もともとお酒を飲めなかった親父(2代目)が、飲みやすいお酒を造ったというストーリーをうまく利用させてもらったりしながら、我々の思いを伝えるように工夫しています。

 

Q)ホームページから「地域貢献」に取り組まれている事が見受けられました。

やはり地域貢献は大事で、しっかり取り組み、地域に愛される企業を目指していこうと考えております。ブランディングのコンセプトとして、「伝統は先をゆく。」を掲げ、初代や2代目が作り上げた伝統を大事にしながら、常に新しいニーズをキャッチしていこうと考えています。現代においては、社会的価値を見出なければいけないという思いが強く、地域貢献に励みながら、働く人の価値観も大事にし、お客様には「美味しい・安全・新しい」という思いを届けられるよう取り組んでいます。

 

新型コロナウイルスによる影響

Q)新型コロナウイルスによる影響についておきかせください。

一時期は沖縄県がハワイの旅行者数を超え、観光業はとても調子が良かったのですが、新型コロナウイルスの影響によって、飲食店をはじめとする県内の様々な業種がどれだけ観光に依存していたかを強く感じました。

居酒屋さんなど、現在困っている方がたくさんいらっしゃいます。その中で、給付金などの支援も様々あるので、それらの情報発信をして皆でこの状況を乗り越えていきながら、かつ新しいお酒の飲み方の提案をしていこうと考えております。
また、最近は「家飲み」が盛んに行われています。なので、小容量の商品の打ち出しや、10月に立ち上げたECサイトなどを使って商品を紹介していこうと考えております。
さらにコロナ対策を十分に取りながら、Go To Travelでいらっしゃったお客様にも誘致していこうと考えております。

 

新たな時代へのチャレンジ

Q)今後チャレンジしたいことをお聞かせください。

①国内外へのPR

これまでは、地元の観光協会の働きで、本社を置く読谷村の異業種の会社様と手を取りあい、国内外へPRしておりました。実際に読谷村村長と香港へPRに訪れたり、それをきっかけに香港の大学生を留学生として迎え入れるなどの交流を行っていました。さらに沖縄県にも経営指導などをして頂きながら、アジア方面に売り出す取り組みを数年前から実施しておりました。異業種とコラボすることで、私が知りえなかったことを教えて頂き、とても勉強になりましたし、今後も続けていきたいと考えておりました。

②新たなお酒の飲み方に合った商品

また、最近は若者の飲み方が変わってきており、若者向けの商品を現在準備中です。若者(消費者)の数も減ってきていますが、全国的に見ても焼酎の消費量の落ち込みはそこまで激しくないと感じています。また、若者が求めているお酒が国外から入ってくることもしばしあるので、若者が求める需要に対して、我々が供給でしっかり応えられるような商品を提案できるように取り組んでいます。

“ブランディングをいかに情報発信に乗せていくか”というのを工夫しており、SNSを中心にデータ分析をして、若者がどういった場所や時間で、どんなイメージを持ってお酒を飲んでいるのかを分析しようと考えています。特に最近は、ハイボールが流行っていて、また、コンビニなどでは缶の炭酸飲料の品揃えが豊富にあります。沖縄県内においては、オリオンビール様がWATTAという若者向けのリキュールの缶飲料が人気を集めています。
人気のある商品も分析しながら、低価格の商品も作っていきたいと考えています。一方で、コロナが落ち着けば富裕層の方も海外からまたいらっしゃる可能性も高いので、本当にいい高額の商品も作っていこうと考えています。

 

有限会社 比嘉酒造 HIGASYUZOU
代表取締役 比嘉 兼作 氏

残波シリーズは地元沖縄県はもより、日本全国・世界中の多くの方々にご愛飲頂いております。これからも創業者~比嘉寅吉の理念を胸に、より良い泡盛“残波”造りに努力・精進致して参ります。