大分県別府市にて、創業46年印刷業を営んでいらっしゃいます、有限会社エイコー印刷の2代目代表取締役の安部秀徳様に、自社開発された商品の概要や事業承継の経験についてお話をお伺いしました。
シール・ラベル・ステッカーといった、粘着の付いた製品を主に製造しています。印刷物として一般的にイメージされやすいパンフレットやチラシのようなものは作っておらず、粘着剤のついている材料の印刷・加工に特化している特殊な印刷会社になります。
中でも特に力を入れて製造しているのは、キャラクターや写真、イラストなどのアーティスト作品が組み込まれているようなシール。主にお酒や化粧品といったブランディングを意識した製品に用いられることが多いです。
こういったシールの製造には、オフセットという業界では少し珍しい印刷機が必要になります。オフセット印刷機は機械のサイズ感やコスト、技術難易度の高さといった参入障壁があり、業界内でもあまり流通していないのですが、当社はその機械を5台保有しています。従業員数24名という規模でこれだけの設備を備えているというのは、世界中に当社しか存在しないかもしれません。
同業他社様からのご相談内容として、お客様から相談を受けたけれども製造した実績が無かったり、そもそもどうすればその仕様が実現できるか分からない、というご相談を受けることも。当社は営業全員が製造現場を経験しており、実際にシールの印刷や加工をした経験がありますので、ワンストップで的確な回答から製造までを行えます。この充実した設備力と提案力が当社の強みです。
はい。まず先述したような業務は、ポスターやチラシの会社、同業他社様からの下請けになるのですが、この場合ある程度利益の条件が確定してしまうんですね。それでも業績としては安定しているのですが、同業他社でも下請け仕事から脱却してメーカーを目指すムーブメントがあり、私もいつかメーカーになりたいという願いがありました。そんな中、コロナ禍で抗ウイルス/抗菌機能性フィルムをシールに出来る手法を見出し、自社ブランド製品としてHINODERIXを立ち上げました。
コロナが始まったころ、ATMが触れないという話がありました。銀行では行員が常にATMの側に立っていて拭いたり、爪楊枝みたいなものを用意して操作していただかなくてはならないということになっていました。クラウドファンディングでは液晶パネルにも対応していると銘打った金属製のフックまで出てくる始末。そこで、我々の抗ウイルス/抗菌シールを貼って頂ければ安心してATMをご利用いただけるのではないかと思いました。
そこで大分銀行様の担当支店長に打診したところ、一気に導入に向けて動き始め、ATM350台に貼り付けられることになりました。大分銀行様と共通で持っていた認識は、HINODERIXはコロナ禍にあって持続可能な社会をつくるSDGsの一環だということ。公共の場に設置されているものを安全に触れられるようにする、ということは持続可能な社会のために必要ですし、SDGsとして考えてよいと。また大分県初の製品ということで地方創生事業としても応援頂く形で大分銀行様にご採用頂きました。
現在HINODERIXは、東北から沖縄までの広いエリアでタッチパネルやウォーターサーバーのボタン、取っ手、ドアノブといった非常に幅広い用途で採用されています。これもシール・ラベルといった粘着製品を専門的に取り扱ってきた当社の知見と「貼るだけで抗ウイルス/抗菌効果が得られる」という次代のニーズが絶妙に合わさった結果だと思っております。
HINODERIXというブランド名も、コロナ禍で人の気持ちが真っ暗に沈んでいた中にあって「明けない夜はなく必ず日は昇る(HINODE)」と「生まれくるもの(MATRIX)」を組み合わせた造語になっています。広くメディアでも取り上げて頂き、沢山のお問い合わせを頂く中で、ブランドとして体現したかった価値を提供できたことに満足しています。
私は2008年4月にエイコー印刷に入社して、2021年に社長に就任しました。ですがそもそも事業承継をするつもりはありませんでした。
大学時代はちょうど就職氷河期で恵まれない就職環境でしたが、ご縁あって株式会社毎日コミュニケーションズ(現:株式会社マイナビ)に採用頂きました。お恥ずかしい話ですが、新入社員では新規契約を頂いたのは同期の中で最下位でした。それでもあきらめずに続けているとコツを掴んでくるもので、3年目からは大手企業開拓チームに抜擢頂きとても充実した時間を過ごしていました。
しかし、リーマンショックが起こり採用市場は一気に冷えこんでしまいました。私は後進に活路を示さんとばかりにHPや制作物など売れるものは手当り次第売ろうと方針転換をしていました。そんな折、突然実家からの電話。採用が上手く行かなかったから帰って来いと。上司や後輩が大変な市場に苦しんでいる中で悩みに悩んだのですが、断腸の思いで地元に帰る決意をしました。
なぜ帰ったかというと……決め手になったのは、亡くなった祖父から高校時代にかけられた言葉ですね。農家を営んでいた祖父と、農業従事者が減っていくこれからの世の中で、農地を広く買い取って生産力のある強い農家に挑戦するのも面白いかもしれないと話していたんです。すると祖父が、本当にやるつもりがあるのなら、俺が買っておく。もし大分で仕事をするつもりなら自分の目が黒いうちに帰って来い、と言われました。祖父は就職して2年目で他界。一番可愛がられていた孫だから、という理由で私が弔辞を読むことになったのですが、その時に「生きている間に帰ることが出来なかった。申し訳ない。」という気持ちが去来したのです。東京での仕事を辞めて大分に帰る決断を下したのには、家業のためという思いと同じくらい、祖父からの言葉も響いていたと思います。
入社してからすぐは一番つらい時期でした。私が人一倍手先が不器用ということもあり、毎日途方に暮れるほど成長出来ない日々が続きました。このまま正攻法では誰一人追い抜けない。手先が器用な人を越えるためには違うアプローチが必要だと必死で考えました。よくよく観察すると、技術者は手先の感覚や積み重ねた個人の経験に基づくノウハウによって技術を積み上げており、体系だった情報に基づくものがないことに気づき、資材や技術について体系だった資料を作成することにしました。
どういった技術があり、資材があり、それぞれにどんな特性があるのか。インターネットやメーカーの営業さんに話を聞くなどして自力で調べ上げ、項目ごとに資料にまとめていきました。結果としてこの資料は社内の基本マニュアルとなり、資料の作成を通じて技術的な知見は社内でトップになり、いつしか技術者からの信頼を得られるようになっていました。
他にもFacebookでシール印刷の先輩方を集めた非公開グループを主催しました。趣旨は「社内ノウハウのオープンソース化」でした。このグループも大変な盛り上がりを見せ、毎年オフ会と称して様々な研修や交流を開催しました。結果として全国的に同業他社様との交流をもつことができ、今となってはかけがえのない仲間のネットワークが構築されています。
そうこうしていると、他の社員からの態度も明らかに変わってきて、事業承継の候補者として認められ始めた実感が出てきました。振り返ってみて一番大変だったのは、結局人間関係ですね。父親を慕ってついてきた社員から後継者として認めてもらうのは特殊な難しさがありました。
私は社長になる前から自分の信じた道を好き放題追求していたので、事業承継ということについて特別な思い入れがあるわけではないですね。会社は時代にフィットするために日々アップデートされるべきもの。事業承継はあくまでその一環で、本来血縁とは関係なくその時にリーダーになるべき人間が担うべきで、血縁を変に気負い父の姿に倣うよりも、自分が納得できる姿を追求していくべきだと思います。
そもそも当社は従業員が必要以上に数字に縛られない働き方を目指したいと思っています。
完全定時内就労(月平均残業時間は0.5時間/人)を主体として、週休完全二日制で年間休日は120日以上。有給休暇も自由に取って頂いていますし、有給とは別に記念日休暇制度、ライフサポート休暇制度という人生を充実させるために、従業員に寄り添う制度を設けています。産休育休の復帰率は100%で、お子さんとの関わり方によって時短勤務も選択して頂けます。中小企業だとここまで徹底している企業はあまりないと思いますね。他にバーベキューなどのイベントも年4回行っています。
ここまで徹底して働き方にフォーカスするのは、自分よりも優秀な人を採用したいのなら、最低限として自分が応募したい会社にならないといけないと思っているからです。そのための最低条件にこだわっている、という感じですね。
完全定時制については、父親の代から引き継いだものです。17時30分には会社を閉めて、私含め全員が思い思いの時間を過ごしています。私は3人の子供と毎日お風呂に入るのが日課です。よくアットホームな職場というキャッチコピーを使う求人がありますが、当社の場合は完全に第二の家族だと思っています。それだけに、一度辞めたら再度入社することはできません。連帯とか絆はそんなに緩いものではなく、常に助け合いながら連携していくために流動的な人の出入りはNGなんです。
また、当社は1人のパートさんを除いて全員が正社員です。会社としては非常に重たい選択ですが、お客様に対して誠実な製品を送り出す全てのプロセスにおいて、全社員が会社の看板を背負い、責任を持って取り組むということを体現するためです。私が入社した頃はパート社員も一定する在籍していましたが、結果として今はこのような体制になりました。社員の平均年齢は30代。この業界の平均は40代後半なので非常に若い組織ですが、平均勤続年数も13年以上。ライフスタイルの価値観を共有できるスタッフと安定した職場をつくれていることが嬉しいですね。
大切なのは、父親の言うことを鵜呑みにして信じないことですね。確かに経験者の意見や考え方については、ある程度尊重する部分はあると思います。しかし全て鵜呑みにすると自分が承継しているはずなのに何をやっているのか分からない。やっぱり自分の気持ちで引っ張っていくということがとても大事だと思います。ただでさえ事業はリスクがつきもの。同じリスクを背負うなら、自分の思うように取り組んでみるべきだと私は思います。
また、父親を信じてついてきた人によりよい生活環境をつくるために、自分の力で会社をアップデートして強くできる。これはサラリーマンでは経験できないやりがいです。ずっと父親の影響が強く、実権を取らせてしまっている事業承継者の方は、あんまり面白くないかもしれないですね。これがやりたいと思った瞬間に「でも父が……」と顔色を伺っていたら、いつまでも子どもみたいじゃないですか。僕はそういう配慮は止めた方がいいと思います。
私はHINODERIXをつくるために抗ウイルス/抗菌フィルム材料を父に無断で仕入れましたが、今までに仕入れたことがないほど高価な材料でした。きっと意見を聞いていたらHINODERIXは誕生していなかったでしょうね。
自分で決断して始めたHINODERIXも、続けていると「もっとHINODERIXが売れて会社が有名になってほしい」というスタッフが出てきました。従来の仕事だけでは起こり得なかった変化を感じてとても嬉しかったですね。私がこの会社を承継したことで起こった結果の確実な一つです。
事業承継は起業とも異なる非常に特殊なキャリアの一つ。自分がクローザーにならずに、中継ぎとして次の世代により成長した姿で渡すために、時代の変化を見据えたリーダーシップを求められます。しかし、家業を信じてきたスタッフの人生をより良い環境に出来るというかけがえののないやりがいも。決して楽な道ではありませんが、誰にでも出来ない生き方を楽しんで頂ければと思います。
インタビュアー:桐谷晃世