元中学校教員という経歴を持ち、現在は父が代表取締役を勤める会社で修行を積みつつ、クラウドファンディングなども駆使して地元の活性化に尽力している株式会社山ス伊藤商店の五代目梅木悠太様にお話をうかがいました。

教員を前職としておられたと伺いましたが、教員を退職して家業に入られることになったきっかけを教えていただけますか。

教員は8年務めたのですが、自分の中であった「卒業式をする」という目標を達成してしまい、20代半ばにして次の人生の目標をどうしよう、という段階になりました。

というのも自分の中学時代の卒業式がとても記憶に残っていて、もう一度あの舞台を体験したいという気持ちがあったんです。そして実際に最高の卒業式を迎え、いわば燃え尽きてしまったんですね。

 ちょうどそのとき、結婚を機に実家に帰る機会があったのですが、町が以前よりもずっと寂れていると強烈に感じました。そこで町おこしをしたい、地元に活気を取り戻したいという想いが強くなり、地元に帰ってくることを決心いたしました。

 順序としては、まず地元に帰ろうと思い立ったとき、そこにたまたま家業があった、という感じですね。 

教員としてのキャリアを始められた際、将来的に家業に入ることを視野に入れていたのでしょうか?

いえ、継ぐ気はまったくありませんでした。我が家は4人兄弟で私は3番目なのですが、おそらく全員に継ぐ気はなかったと思います。

同様に、父親も私たちに承継のことを何も言いませんでした。おそらく家業を継ぐといったもので子どもたちを縛りたくなかったのではないかと思います。

そうした意味で、家業のことを意識したのは地元に帰ってからが初めてでしたね。 

1919年創業の伊藤金物店、株式会社山ス伊藤商店ですが、その事業概要についてお聞かせいただけますか?

 簡単に言えば、土木業者専門のホームセンターです。

 広大な土地を誇る北海道では、他県に比べてかなり多くの土木業者がいます。我々はそうした方々にとって必要な物をすべて揃え、取り扱っております。

 伊藤商店の歴史は古く、前身となる伊藤金物店は大正8年(1919年)に創業しました。その当時は鍋や包丁といったまさに金物を取り扱っていましたが、大資本の参入につれ、BtoCからBtoBへと舵を切っていきました。

 そうして土木建築資材卸売や地域の総合商社へと形を変え、現代まで生き残ってきたのです。

社名の由来をお伺いしたいです

「山ス伊藤商店」の「山ス」の部分は、屋号になります。明治や大正から続いている会社には屋号が残っているものが多いですね。

創業者が伊藤捨次郎と申しますので、捨次郎が山の頂上に登るという意味合いから「山ス」となりました。「伊藤」もやはり、捨次郎から私の祖父までの姓をそのまま採用したものとなります。

会社の強みをご教示ください。

強みでいえば、歴史が深い分、仕入先は道内の多くの事業所を網羅していることと、他の土木資材を取り扱う業者と違い配達にも力を入れている点でしょうか。

加えて、土木・建築資材の品ぞろえであれば他店に負けないと自負しております。 

アトツギとして家業に携わる中で、最も印象に残っている出来事を教えていただけますか?

私が承継してから新しく社屋を建てたのですが、その場所には以前に月形デパートというデパートが存在していました。

祖父がもう60年ほど前に建てたものなのですが、あまりにも老朽化が激しいのと、かつて活躍していた時代とは違って廃墟のような様相を呈していたので、とうとう祖父の同意のもと取り壊す決断をしたんです。

そのとき祖父は既に90代にもなっていて、認知の面も衰えていたので、まだ意識がはっきりしていたときにけじめを付けられたこと、またその場に立ち会えたことがとても印象に残っています。 

月形町の地域活性化に向けて、つきがたdesignの発足やツキビズキャンプなど、多岐にわたる活動をされていますが、その活動の原点とは何でしょうか? 

 戻ってきた当初から、この月形という町を誇れる場所にしたいという想いがありました。

 そこで民間から地元を活性化させるためにできることはないかと模索し、そこで設立したのがつきがたdesignという任意団体でした。

 メンバーは現在10名ほどで、公務員や農家の方、福祉施設に勤めている方など、皆さんそれぞれの仕事の側ら活動しています。

 そしてそこでスローガンとなっているのが「明るい過疎化」というワードです。

 「明るい過疎化」とは、人口減少はもはや止めようがないので、過疎化していく中でも月形は明るく、面白くあり続けよう、という意味なんですね。

 そして面白い人とは何なのかというと、常に挑戦し続ける人だと思っております。挑戦し続ける人がいれば、やがてその周りに人が集まってくるんじゃないかと。

 その考えのもと、私たち自身も常に挑戦を続けることをモットーに、挑戦できる環境作りに尽力しています。 

つきがたdesignの具体的な活動内容についてお聞かせいただけますか?

活動として、まちの未来を考える「つきがた2030会議」や農家の方々を中心とした「つきがたFarmers Market」、焚火とコーヒーと共に会話を楽しむ「つきがた焚火会」などを実施しました。

さらにつきがたdesignの活動の場として、「Tsukigata LABO」を発足いたしました。

これは『ワクワクを生む「場」の創造』をミッションとし、コワーキングスペースとしての機能を軸に3つの「場」の提供を目的としています。地域内外の交流の場であるとともに、学生のための勉強の場でもあり、様々な人の仕事の場でもあるという、地方活性化に向けて様々な機能を兼ね備えた場となっています。

 この場を通して、新たな出会いが生まれ、町がより面白くなっていくことを目指していますね。 

月形町の魅力について教えていただけますか?

 結論から言えば、月形町にしかない魅力を作るのは難しいと思っています。

 ただ、私たちの会社が100年以上続いてきて、先祖代々根付いてきたのがこの土地ですから。

事業と関係ないことですが、私の母もガーデニングでは有名な人で、まちのために何かしようとずっと活動してきました。そういう風に先人の想い出が繋がってきた場所であるというだけで、この町に居続ける理由になっていると思うんですね。

付け加えれば、地方として人と人との距離は近いですし、札幌から一時間という立地も悪くありません。

どこが好きだとか魅力だとか、難しい質問ではありますが、執着があるからこの場所を良くしたいという、結局はただそれだけの話だと思います。 

最後に、事業承継ラボの読者であるアトツギの方々に向けてメッセージをお願いします。

私もアトツギとしてはヒヨッコですので大したアドバイスもできないのですが、まずは「こうしなければいけない」というアトツギとしての呪いに囚われないことが重要だと思います。

まず自分が何をしたいか、ということを追求して、自分自身が楽しんでいくことから、経営が始まるのではないかと思いますね。