創業63年の歴史を誇り、広く九州全域に手間暇かけたおいしい食事を届けていく株式会社ニシコーフードサービスにおいて、脱サラ・承継後に様々な施策を打ち出し、会社の経営を立て直した六代目代表 甲木雄平氏にお話を伺いました。
株式会社ニシコーフードサービスは、福岡県八女市という熊本との県境近くの都市に本社を置く企業で、現在は64期目を迎え、操業から一貫して食品の製造・販売を行ってきました。
私は前職では地元を離れて全国転勤のサラリーマンを務めていましたが、紆余曲折あって昨年代表を継ぎまして、今は32歳になります。
より具体的な事業概要としては、九州の中に19店舗ほどお惣菜、お弁当などの自社食品を販売する店舗を展開しており、そうした直営店の売り上げが全体の95%を占めています。
店舗ブランドとしてはニつに分かれていて、一つがかつきや、もう一つが吉祥庵となります。まずかつきやは日常使いをしてもらうということをコンセプトに、スーパーマーケットやショッピングモールなど足を運びやすい場所に出店しているブランドとなる一方、吉祥庵は歴史や伝統性を意識し、老舗百貨店やデパ地下、大きな駅ターミナルなどに出店しています。
沿革の観点でいうと、私が会社に入ってから新しいコンセプトのブランドを立ち上げようということで成立させたのがかつきやで、それと対をなす形で従来のブランドを整理した結果誕生したのが吉祥庵、という説明もできますね。
このニつを軸に、ただ今は佐賀と宮崎を除く九州全域で店舗展開をしております。
当社は「手間暇で世界を豊かに」をビジョンミッションとして掲げており、商品作りのうえでも手間暇をかけるということにこだわりを持っています。
現在の社会ではグローバルな資本主義がどんどんと発展しており、この中食業界でも、食にまつわる合理性や効率性がものすごく重視されています。たとえばコンビニでも、お弁当やおにぎりが24時間途切れないように無限に生産され続け、消費者の側もすごいスピードで無限に消費し続けているといえます。
ただ私どもとしては、食べ物のバックボーンがまったく気にされず、ただ消費されるだけでは寂しいという気持ちがありました。そこで作り手さん、生産者さんの想いやこだわり、その土地ならではの味の特色を重視してお客様に小売販売していくことで、社会に食べ物の豊かさのようなものを広げていければよいと思っているんです。
そもそも会社が創業した当時の社名は今とはまったく違い、西日本酵素株式会社と名のっていました。それが取引先の方々から略して「西コーさん」と呼ばれていたことを由来に、その後ニシコ―フードサービスと改称いたしました。
事業内容にも変革があり、祖父の代はたこ焼き、お好み焼きなど粉物の粉末原料の販売が事業の支柱だったようです。その関係でたこ焼きやたい焼きを製造するための機械を発明し、製菓業者として当時の通産大臣賞を受賞したこともあるとか。
事業の流れとしては、祖父が自ら開発した機械と会社の好素材、粉末原料を使って地域の百貨店に実演販売に赴くんです。そこでこの材料を使えばスピーディーで大量生産が可能な粉物屋ができる、というふうに宣伝して、日本各地を回っていたそうです。
ただ私の父に代替わりした段階で、そういう営業の形は体力的に難しいということで、自分たちの店を構えるやり方に方向転換しました。それが現在まで続く会社の形態の土台となっているのですが、やはり創業から商売のやり方が大きく変わってきたことは間違いありません。
現実的な強みとしては、やはり九州に19店舗もの直営店を構えているという店舗網の細かさですね。それだけお客様と繋がり得るポイントを持っているということですから、ダイレクトに売り上げにも反映されます。
もう一点抽象的なところでいうと、先述したような手間暇へのこだわりなど、自社としての考えが確立されていることも強みといえるでしょう。ただ私が家業に戻ってきた当初は経営が上手くいっておらず、悩む時期もありました。
そこから自社のことを色々な面から振り返ったとき、改めてこうした強みが見えてきたという感じです。
家業に入る直前は、畑違いですがブライダル企業にサラリーマンとして勤めていました。大学生のときにはもう仕事をするのが好きで、アルバイトとしては異例の責任を貰ったり、国会議員の秘書をやっていたりと、結構アクティブな大学生でした。
そして就活を迎えた時期、生意気ながら世の中のサラリーマンってあまり魅力的な大人ではないな、という感想を抱いていたんです。ただその後たまたま自分が理想とするような輝いているサラリーマンの方に出会うことができて、その勤め先がブライダルだったので、正直業種として興味はなかったのですがそこに就職した、という流れです。
そこで30歳までは経験を積もうと考えていたのですが、しかし一足先に家業に戻っていた兄から、経営状況が芳しくない、早く帰ってこないか、という提案を受け、最終的には26歳で家業に帰りました。元々小中学生のころから実家の手伝いをしてきていて、兄ともいつかは承継するという話はしていたのですが、予想外に早まった形です。
私は16歳で父を亡くしたのですが、実を言うとそれまではかなり反抗的な子供でした。そんな思春期のど真ん中に経営者の父が亡くなって、初めて自分の人生はこれでいいのか、真剣に思い悩む時間がありました。その経験のおかげで、大学生になっても社会人になっても、引いては今でも、仕事に対して一生懸命でいられるんじゃないかと思っています。
最初の一年半ほどはどっぷり現場に入り、現場の話を聞いて課題を抱えた店舗を立て直したり、新たに立ち上げる店舗の店長として動いていました。そこからは本社に戻って営業統括として全店舗をマネジメントしていましたが、折悪くコロナ禍が始まったので、そのダメージから回復するために新商品の開発や展開、組織の整備などにも尽力しました。
肩書きとしては2020年に常務取締役となって営業・商品部門を統括し、代表となった去年には兄が会社から去ることになったので、それまで担当してもらっていた財務関係も併せ、現在は私が事業のほとんどを管理しています。
お恥ずかしい話、計画的な動きは全くしてきていないです。
というのも、戻ってきてからは次々に湧き出て来る目の前の課題をがむしゃらに熟し続け、その結果今に至るという感じですから、言ってしまえば行き当たりばったりです。
ただ社内には自分がやっていることを応援してもらえる空気ができていたので、それがすごくありがたかったですし、周囲のおかげという側面もかなりありますね。
先ほどお話した、かつきやブランドの立ち上げプロジェクトが自分として一番大きなアクションです。
それが時期的にまさにコロナ禍ど真ん中のときで、元々経営不振だったのに追い打ちをかけられて、ここから切り抜けるための光が見えないという絶望的な状況でした。
だからこそ私たちの会社がどんな価値をお客様に提供しているか、その具体的なモデルがなんであるか、ということをゼロから考え、原点回帰した結果として作り上げたブランドがかつきやですから。
私たちが大事にしていきたいことが凝縮されているという意味で、一番思い出深いプロジェクトですね。
準備中といいながら実際にはもう活動のフェーズに入っているのですが、今年の6月から私と同じ境遇にある跡継ぎの方々を対象とした経営塾をスタートしています。
その根本にある思いとしては、八女市は人口6万人弱ほどのあまり大きくない都市で、やはり手を拱いていては衰退していく一方なんですね。そしてこの町を持続可能にしていくための手段を考えると、やはり地元企業を元気にすることが一番だと思います。
大企業って、採用に関しても人材育成に関しても充実しているじゃないですか。私たち一社だけではとても敵わないですが、今後地域で同じ意思を持っている企業とタッグを組んで、八女市全体で一丸となれば、できることの幅はすごく広がるはずですから。
事業承継において一番大事なことは、いわゆるメタ認知であると考えています。
色んな会社や跡継ぎの方々の事例を私自身たくさん聞かせてもらうのですが、やはりそれらは自分の性格や特性、自社の状況によって異なるもので、他人も事例を真似できるようなものではないんですよね。
ですので他人に相談することは重要としても、まず自分自身と自社のことを理解し、そこから考えていくことが大切だと思います。それはなぜ自分が家業を継いでいくのかという、自己の根本に立ち返ることでもあるんじゃないでしょうか。