創業から72年もの間包丁の製造技術を追求し、独自の包丁ブランド「堺一文字光秀」を展開、世界に誇る日本の和食文化を支え振興していく一文字厨器 三代目当主田中諒様にお話を伺いました。
大阪の難波で包丁屋を営んでおり、道具屋筋という商店街に位置してます。道具屋筋とは調理器具から食器、看板など豊富な商品を取り扱う商店街で、プロの料理人が一たび通れば、店を一軒建てるために必要な情報と物が入ってくると言われてきました。
我々はそこで包丁の製造と販売を72年間続けてきて、現在はおよそ2000種類もの包丁を取り揃えております。近年は日本の食文化が世界で評価されていることもあり、外国人のお客様も増えてきましたので、その良さをより広めていくという視点のもと、道具屋筋を盛り立てるための試みにも取り組んでいますね。
そうですね、5年ほど前までは特に料理が好きで和食が学びたい、という志のある方がプロ用の包丁を買いに来られるケースが多かったのですが、最近では普段使いのためやお土産用の需要も増えているようです。
やはり特別感がありつつも実用的で長く使えるもの、という軸で人気が出ているというイメージですね。
まず私の祖父は大戦中の学徒動員を体験した世代で、さらに終戦後まもなく両親を亡くしたため、働かざるを得なくなり、鉄工所で知り合った職人に頼って包丁技術を学びました。その後包丁を商売とするため親戚を頼って道具屋筋に丁稚奉公に入り、修行を経て自分の店を開いたのが一文字厨器の始まりと聞いています。
それからはお客さんの声を聴くことをモットーに事業を営み、当時としては画期的だった硬度の高いステンレス包丁を取り扱うなど技術を育てていきました。当初は二坪だった間口も広がり、紆余曲折ありつつも阪神大震災やリーマンショック、直近のコロナ禍までも乗り切って、現在は包丁屋としては相当な規模となっています。
「堺」はもちろん大阪の地名の境であり、創業当初は堺の職人さんに包丁を販売していたことに因んでいます。
「一文字」は家宝と言っては大げさですが、父方の家に代々受け継がれている一文字成宗という刀の名前を拝借しました。また親戚一同に「光」と「秀」という字が多く使われているので、一族を代表するという意味で「光秀」としています。
これらを統合して、「堺一文字光秀」と銘打っております。
端的に言うと、「薄くて硬い」ということです。これは言うは易しですが実現するのはとても難しいことで、硬い鋼材の加工は高いレベルの技術が要求されます。その薄さと硬さのバランスが、プロの料理人さんを支えるクオリティの秘訣です。
ベースとしてはまず和食で3種類、洋食も3種類で、そこから鋼材・大きさ・製法の違いで掛け算になって増えていきます。
さらに一般に普及していないものも含めれば無限に近い種類がありますよ。たとえば革職人向けの包丁であったり、スイカ農家さん向けのスイカ専用包丁であったり、世に知られていない限定的な用途の包丁はたくさんありますから。
やはり日本の食文化は現在世界で非常に評価されているのですが、この傾向は一時的なものだということをしっかり認識する必要があると思っています。皆さん何となく日本の食はすごいという感覚は持っているけど、それが具体的にどのようにすごくて、今後どう発展していくべきか、という視点はあまり広がっていないようです。
今料理文化の根っこがどうなっているかというと、農業や漁業などの例に漏れず、作り手の減少と高齢化が深刻になっているんです。昭和50年の段階で150人ほどだった研ぎ師が、もはや20人程度になってしまっていて。産業自体は高く評価されているのに、その功績が作り手までフィードバックされていないという現状があるんですね。
だからこそ我々が今何をすべきかと考えた時、それはこれまでのようにがむしゃらな熱量で突っ走るだけではなくて、料理業界のことを広く知ってもらって、新しい視点から業界が存続していくためのアイデアを出していくことだと思いました。
そのために去年10月に店舗2階を改装してオープンしたのが、イベントスペース『一十一 ICHITOI』です。ここで座談会やプレゼン、配信なんかを実施して、違う文化同士でアイデアを交換し合い、食文化への貢献に繋げていきたいです。
今はあまり聞かないですけど、「大阪は天下の台所」と言われていた時代があったじゃないですか。その時代をもう一度、日本食のことを知りたければ『一十一』に、という場所にしていきたいです。
私は17歳の段階で家業を継ぐことはもう決めていましたが、そのきっかけとなったのは祖父の死でした。
祖父は事業家として周囲から尊敬を集めていた人でしたが、私としては、どんなに忙しそうなときでもかわいがってくれた優しいおじいちゃんとして記憶しています。
祖父のお葬式が終わったあと、それまで身近な人を亡くしたことがなかったぶん、もう会えないということが信じられないというふわふわした気持ちで店に戻ったんです。ところが店に戻ってみると、祖父はまだ生きているという気持ちになったんですよ。
おじいちゃんを頼って入社した社員さんが、おじいちゃんが仕入れた包丁を扱って、お得意にしてくれるお客さんに売る。おじいちゃんの思いはずっと生き続けているんだという感覚があって、しかもそれを僕も受け継ぐことができるんだと思いました。家業に入ることを決意したのはそのときです。
そこからは東京でWEB広告の会社に入って、ちゃんと責任のある仕事に務めるために31歳まで籍を置いて、大阪に帰ってきました。
入社した当初衝撃的だったのが、経理がそろばんで、帳簿が手書きで書いてあって、先月のWEBの売り上げいくらですかって言ったら1時間くらいして手書きで出てくる、という状態だったことなんです。
だからまず商品のデータベースをExcelに整理したり、採用評価の仕組みや打刻システムを整えたり、といった地道なデジタル化を推進してきました。
また直近だと我々のミッションや存在意義を洗い出して、先述したような今後の活動への落とし込みを進めているところです。
後継者としての仲間づくりは、すごくやってよかったと感じています。
私はアトツギファーストという団体に所属していまして、そこで跡継ぎ特有の悩みを相談してアイデアを交換できたことは、自分の中でとても大きかったですね。
しかもそれこそWEB広告の業界って大分キラキラしているので、そこから商店街の包丁屋の跡継ぎということで勝手が分からなかった時期に、イノベーションを起こそう、チャレンジしようという感覚を共有できたことは、ありがたい機会でした。
食文化に貢献し、世界から見た日本食のすばらしさを守っていきたいです。
その方法としてこれまでの70年間はアナログなやり方を続けていましたが、令和ではもっとデータやテクノロジーを駆使して価値を高めていくことができるんじゃないかと。
たとえばイベントに参加してくださった人たちに対して、どういう包丁の使い方をして、どういう研ぎ方をしているかということを観測してデータベース化し、新しいアイデアに繋げていく、などですね。現在はその準備に取り掛かっている段階です。
ともにフラットな目線で情報や熱量をシェアしながら盛り上げていきたいです。私自身が先輩方から経験を共有していただくことで多くの刺激を受けたように、これからも跡継ぎの方々とアイデアを交換し合い、次世代の元気と活力につなげていきたいと考えています。一歩ずつできることを積み重ね、次世代に貢献していきましょう。