「家族が幸せで、後継者が喜んで継ぎたいと思える会社にしたい」。そう語るMKUコンサルティング代表の北島氏。壮絶な家業倒産を経験し、苦難の中から独自の経営哲学を確立しました。
北島氏の信念の根底にあるのは、「ファミリーの経済的な豊かさなくして、ファミリービジネスの永続的繁栄はない」というリアリズム。
今回は、その揺るぎない信念がいかにして生まれ、そして現在、多くの中小企業を救う力となっているのかを、北島氏の言葉から深く探ります。
ーー北島様が中小企業診断士の資格取得を決意され、そして事業承継の支援に深く関わるようになった背景について、改めて詳しくお聞かせいただけますでしょうか?
北島氏: はい。私の実家は埼玉の岩槻で工場を営んでいました。父親は元々、日本合成ゴムという半官半民の非常に安定した会社に勤めていたのですが、そこから独立して事業を立ち上げたんです。
ところが、独立を機に家族の生活は一変しました。本当に、給料が全く家に入ってこない日々が続いたんです。食べるものにも困るような状況で、生計を立てていたのは、母が教えていたピアノと声楽の収入でした。
そんな家族の困窮を極める中で、私はある冷徹な現実を目の当たりにしました。家業が多少羽振りが良い時期には、親戚がこぞって浦和の我が家を訪れ、「銀座でご馳走してくれ」などと言ってくるんです。ところが、「どうやら経営が危ないらしい」という話になると、親戚同士のセンサーが働くのか、途端に誰も連絡をよこさなくなる。音信不通になるんですね。子ども心にも、経済状況が人との関係性にここまで影響を与えるのかと、大きな衝撃を受けました。
北島氏: そして、2000年12月に家業は倒産しました。
私は後継ぎとして育っていたので、この状況を非常に重く受け止めたんです。その時に強く思ったのが「我が家の家業はこうなってしまったけれど、他の家業は、経営者とその家族、社員とその家族に、経済的豊かさに基づいた幸せをもたらすものであってほしい」ということでした。この経験が、私の経営哲学の根幹を形成することにつながっているんだと思います。
ーーその時の強い思いが、現在のコンサルティング活動の出発点になったのですね。
北島氏: まさにそうです。私は、経営者やオーナー企業は、とてつもないリスクを抱えて事業を行っていると思っています。だからこそ、成功した時には、その努力とリスクに対する正当な報酬として、家族が経済的な豊かさを享受すべきなんです。実際、著名な経営者の方々が豪邸を建てたりすると、とかく叩かれがちですが、私はリスクを背負った経営者であれば、多少そうした豊かさがあっても良いと考えています。
そうでなければ、そもそも誰も新たに事業を起こしたり、その事業を継ぎたいとは思わないでしょう。
私の母親も、給料が家に入らず苦労が絶えない状況では、「子どもに後を継がせたくない」と考えていました。
しかし、家庭の生活が経済的に豊かであれば、家族全員がファミリービジネスに対して好意的な感情を持ち、自然と事業を継ぐようになる。
だから、まずは今のビジネスを成功させ、その上で事業承継をうまくいかせたい。これが私の仕事のすべての始まりだったんです。この強い思いから、私は中小企業診断士の勉強を始めることを決意しました。
ーーなるほど。そうした原体験が診断士の道に進むきっかけだったのですね。資格取得は、おいくつぐらいで取得されたのでしょうか?
北島氏:20代から勉強をし始めたんですが、実はかなり時間がかかった方なんです(笑)。なかなか勉強時間が取れなくて。結局、診断士の資格が取れたのは、最初に勉強を始めてから15年も後のことでした。最終的には、2016年に兵庫県立大学の大学院を卒業し、2年間の養成課程を経て、中小企業診断士とMBAを同時に取得したんです。一次試験に合格した人が大学院の課程を修了すれば両方取得できる制度があったので、最終的にはこの道を選びました。
ーー15年ですか!それは長い道のりでしたね。その間も、お仕事は続けられていたのでしょうか?
北島氏: もちろんです。大学院に通っていた時でさえ、土日も普通に仕事をしていました。私がここまで実務経験にこだわったのは、父親が経営の実践者だったからです。経営の実務を知らないと、本当の意味でコンサルタントは務まらないという思いが強かった。
だから、「一日でも早く経営実務を身につけたい」という思いで仕事に邁進しました。製薬会社、ベビー用品メーカーを経て、32歳で一部上場企業の事業責任者になり、その後は商工ファンド(旧・株式会社SFCG)のグループ会社でヘルスケア事業部の責任者を務め、そこで初めて本格的に経営の手法に触れることになりました。
中小企業診断士の資格を取る際にも、「ちゃんと経営実務が分かった上で」診断士になりたいという気持ちが非常に強かったんです。今でも、診断士の中には、残念ながら経営実務の経験が不足していると感じる方が多いので、実務を積んだ上で独立するという私の選択は正しかったと思っています。
それが結果的に、資格取得まで時間がかかった理由かもしれませんね。
ーー長い実務経験を経て、独立を決断されたのは何歳頃だったのでしょうか?また、MKUコンサルティングという社名には、前職の代表の方の思いが込められていると伺いました。どのような経緯でこのお名前になったのですか?
北島氏: 独立自体は、する想定でしたが、実際に決意したのは、55歳という節目の年でした。何か節目を設けないと、ずるずると会社に居続けてしまうと思ったので。54歳の時に前職の代表に退職の意向を伝えたところ、「一番最初の客になるから」と応援の言葉をいただきました。実は、今でもリーブ21のグループ会社の役員を続けているんですよ。
MKUコンサルティングの社名は、前職の代表が考案してくださったんです。7月に相談し、年末に「この三つの言葉を入れたらいい」と言われました。それは「メビウス(M)」「クラウド(K)」「ユニコーン(U)」です。
岡村代表の思いは、「支援先が永続的に繁栄するよう、知識の蔵になるよう」という思いで名付けて頂きました。従いまして、「知識の蔵のように支援先にとって頼れる存在であり続け、支援先全てが急成長を遂げ、メビウスの輪のように永遠に繁栄し続けるよう、そのような会社になって欲しい」という願いが込められています。」というのが、名前に込められた代表の思いです。
ーー素晴らしい社名ですね。ちなみに、オフィスは東京と大阪に構えていらっしゃると伺いましたが、大阪の心斎橋オフィスは、リーブ21様が立ち上げられた一般社団法人「日本キャンサー・ピアランスケア協会」の登記場所にもなっているそうですね。
北島氏: はい、そうです。大阪の心斎橋オフィスは、私の母校の診断士仲間が運営しているシェアオフィスなんです。その入居条件が中小企業診断士であることだったので、私がそこに入居し、日本キャンサー・ピアランスケア協会で使っています。(登記場の主たる事務所になっています)。
この協会は、抗がん剤の副作用に悩まれているがん患者の方々のQOL向上を目指していて、その活動を支援しています。
将来的には、生まれ育った関東、特に埼玉での事業承継支援に注力したいなという思いもあります。父親が脳梗塞を患ったこともあり、やはり地元の関東に顧客基盤を築きたいと考えているんです。
ーー北島様のコンサルティングの大きな特徴として、「業種・業態を問わない」という点が挙げられると思いますが、これはどのような経験から培われたものなのでしょうか?
北島氏: 私の場合、これまでのキャリアで携わった業界が非常に広いんです。メーカー、製造業からサービス業、金融、不動産賃貸業まで、本当に多岐にわたります。リーブ21とそのグループでは対外交渉を任されていましたから、銀行交渉を通じて金融業界にも詳しくなりましたし、仕入れ先とのやり取りを通じて様々な業態に関わってきました。
信用保証協会さんから来る案件でも、ほぼ業種を選ばずに相談が来ますね。
特に、「専門的な人が見つからない」「ちょっと微妙だな」と感じられるような案件で、私に声がかかることが多いんですよ。
例えば、地方球団運営や民泊といった分野は、専門家を見つけるのが難しいですよね。
ーー確かに、ニッチな分野の専門家は限られているイメージです。
北島氏: その通りです。ニッチな分野だと、そもそも携わっている人の数が少ないので、たとえ「トップの専門家」と言われても、実際には場数が足りないケースが多いんです。私の場合、そういったニッチな分野でも、数回支援に行ったというレベルではなく、事業経営者として関わってきた経験が30以上の事業に及びます。だからこそ、幅広い業種・業態に対応できることが、私の一つの大きな強みだと考えています。
ーーでは、北島様が特にお声がけして欲しい、あるいはコンサルティングを提供したいと考える企業の規模などはありますか?
北島氏: 規模としては、売上100億円以下、従業員300人以下の中小企業がベストですね。もっと言えば、売上50億円を切っている企業が望ましいです。私としては、小さければ小さいほど良いと考えているのですが、あまりに規模が小さいと、現実問題として報酬を支払うのが難しいという側面もありますから。
ただ、そのくらいの規模の企業であれば、社内に解決策を見出せる人材がいないわけではないんです。単に経営者本人がそのことに気付いていないだけ、というケースも多いと感じています。
ーー北島様のコンサルティングの根底には、家業倒産のご経験から生まれた「経済的豊かさなくして真の幸せは長続きしない」という強い信念があるとお聞きしました。この信念は、具体的なコンサルティング手法にどのように反映されているのでしょうか?
北島氏: 私のコンサルティングは一貫して、「永続的なファミリービジネスのために、経済的豊かさが必要不可欠である」という信念に基づいています。
たしかに、お金では計れない側面もありますが、やはり経済的な豊かさに立脚しなければ、誰も会社を継ぎたいとは思わない。だから私は、どんなに債務超過でリスケジュールを繰り返しているような企業であっても、「ご子息が胸を張って継ぎたいと言えるような会社にしましょう」と訴えかけます。
そして、その実現のためには、「経営者の手元にお金が残るコンサルティング」に徹底的にこだわるんです。
例えば、経営者個人のクレジットカードを作り、コンビニでの買い物のような短期的な利益をそこから生み出し、それを会社への借入金として積み上げていく。年度末には、代表者貸付に必ず2%程度の利息をつけて処理し、経営者自身の所得を極力少なくすることで、貸付金の返済という形で手元のお金を増やしていきます。
ーーそれは税金がかからない形で手元資金を増やすということですね。かなり実践的で、一般的なコンサルティングとは一線を画している印象を受けます。
北島氏: そうです。返済であれば税金はかかりませんから。最初は抵抗を示す経営者の方もいますが、私は「1億円までなら、こうした工夫をしてもいいと思っています」と伝えます。
私自身が、家業の工場でアルバイトをしながら「この小さな工場を支えてくれている社員の方々に恩返ししたい」と、純粋に継ごうと思った時期がありました。
でも、もし母親のピアノと声楽の収入がなければ、絶対に会社を継ごうとは考えなかったでしょう。
だからこそ、私は経営者自身が経済的に潤い、その豊かさを家族が実感することが、後継者が前向きに事業を継ごうと考え、パートナーも応援するようになるための、何よりも重要な要素だと確信しています。
そして、この経済的豊かさは、経営者やその家族に留まらず、従業員とその家族の幸せにも繋がると私は確信しています。従業員に「うちの会社がダメだから、この給料で我慢してくれ」と言うのでは、人材難の昨今、生き残れないでしょう。短期間で成長している会社に共通点があります。そうした会社は、会社の重要指標と多様な社員の願いを数字で結びつけ、「会社の数字がこうなれば、これだけ払ってあげられる。私も本当はそうしたい。だから皆で頑張ろう。」という説明ができているのです。頑張った結果、売上が増えれば、付加価値労働生産性が上がり、それに連動して従業員の給与も増え、経済的に潤うわけです。
ーー 経営者から従業員まで、会社に関わる全ての人々が幸せになる好循環ですね。
北島氏: まさにそうです。従業員自身が潤い、その家族が潤う。この状態こそが正しいやり方であり、幸せな会社だと信じています。従業員が20名でも30名でも、この状態が実現されている会社は、オーナー家族も従業員家族も幸せです。
雪だるまの芯がないのに無理にグループを拡大しようとするような会社は、間もなく破綻します。私自身の家庭環境がそうだったからこそ、「経済的な豊かさに立脚しなければ、綺麗事では長続きしない」ということを強く感じているんです。だからこそ、私は最初に社長に会う時、「ご子息さんが継げる会社にしたいですね」とお伝えするのです。
ーー北島様は現在56歳で、精力的に活動されていらっしゃいますが、MKUコンサルティングとしての将来の展望や、今後どのようなことを実現していきたいとお考えでしょうか?
北島氏: 私は、10年後には常時10人ぐらいの診断士や資格者と一緒に仕事ができる会社にしたいと考えています。
そして、それと同じくらいの数の独立した診断士を輩出したいという思いもあります。私自身も、社会に還元したいという気持ちが強いんです。
ーー「独立診断士のインキュベーション」のような役割を担いたいということですね。
北島氏: そうです。昔は、独立する診断士が先輩から仕事をもらいながら覚えていくという環境があったようですが、私はそうした環境にはありませんでした。先輩方は、スペック的に使いやすい人に仕事を回す傾向があります。私のように何十もの会社で経営実務を手がけてきた人間はスペック的に使いにくいようで、ゼロからやっていくしかありませんでした。
だからこそ、私は「うちの会社で、お客さんの取り方や仕事の回し方まで覚えられて、その後独立してもらう」というような、インキュベーション的な役割を担いたいと思っています。エンジェル税制の研究なども、そうした社会貢献への考え方から取り組んだものです。
私自身の壮絶な経験から得た「経済的豊かさがファミリービジネスの幸せの根源」という揺るぎない信念を、次世代へと繋ぎ、より多くの中小企業を幸せに導くことが、今の私の目指す展望ですね。