福岡県久留米市で200年以上続く老舗酒造、山の壽酒造株式会社。革新的なアプローチで社内のみならず日本酒業界に新しい風を吹かせ続ける、8代目の片山 郁代社長へお話を伺ったインタビュー記事です。
前編はこちら。
発注量は増加、しかしリソースや設備は足りないままで…。
新商品の人気が高まっている一方で、片山社長はバックオフィスの設備について、以前の会社とは違うことが多くて驚いたそう。
「配送業者さんに渡す送り状も全部手書きだったんです」
――かなりアナログですね…。
「新商品が人気になったことで、だんだん手書きじゃ追いつかない発注量になってきて…出荷のときに、商品にラベルを貼る必要があるんです。それが間に合わなくて。朝の4時から夜中の2時まで手作業でラベルを貼って、それからの1時間半は送り状を書いて…っていうこともありました」
――すごいですね……これまでは、その作業をみなさんでやられていたんですか?
「それほど発注の量が多くなかったので対応できていたんです。でも一気に発注が増えてしまったから、機械で貼らなきゃいけないレベルになって…」
(一同笑い)
「だから、今度はここを直していかないといけないんだな、と思って、設備を導入していきました」
経営者として企業を存続するために様々な勉強会にも参加
当時は決算書の読み方が分からなかった片山社長。勉強しようと思い立って出かけた勉強会で、今の旦那様と出会います。
「主人が中小企業診断士の資格を持っていて。それで、経営革新事業の主催者として参加していた主人に私の決算書を見てもらったんです。決算書を見た主人から『これは長距離マラソンになりますね…』と言われて、その長さがイメージできなくて。3年くらい? って尋ねたら大笑いされたのを覚えています」
(一同笑い)
――片山社長は、リキュールを販売した段階ですでに「経営者としてやっていこう」という意思が固まっておられたんでしょうか?
「経営者になるために頑張ろう、というよりは、『この会社を存続させたい』『存続させるために一日一日、頑張ろう』と考えていました。その頃、営業の数字も出ていたので、本部長の肩書きをもらって、それから専務、代表取締役というかたちで昇進していきました」
――もともといらっしゃった従業員の方からの印象や、代が変わっていくということについての社内の雰囲気については、いかがでしょうか?
「もともといらっしゃった方は年配の方が多かったので、定年までは働いていただいて、お辞めになったタイミングで次の方を入れる、という形になっていました。事業承継のタイミングで辞められた方からはお話を伺っていないので、そのあたりは分からない部分もありますね」
全くの新人から酒蔵でお酒造りを学ぶ
「今はもう4年目になりますが、酒蔵に入って一緒にお酒造りをしています。しきたりにならって、はじめはゴミ拾いから始めましたよ」
造りでは自分がぺーぺーだから、と仰る片山社長。その一方で、社長として部下を叱責しなければならないことも。一見矛盾するような話ですが、片山社長はこれらの行動を次のように説明してくださいました。
「部下は『社長から評価されている』と思っているかもしれないけれど、私はみんなから評価されている立場だと思っています。だから、現場にも入るし、財務のことも見ます。私がなりたい経営者は『経営・造り・財務』の3本柱を育てられる人。でも私がすべてを見ることはできないから、造りの右腕になれる経営者でありたいし、財務の右腕になれる経営者でありたいんです」
杜氏を「呼ぶ」のではなく自社で「育てる」環境へ
次に片山社長は、4年前から本腰を入れて取り組まれている組織改革についてもこう振り返ります。
「ベテランの杜氏さんがいなくなったときに、新しく杜氏さんを呼ぶ、というかたちではなく、指導してくださる方を呼ぶ、というかたちに切り替えたんです」
――なるほど。
「蔵人さんには『みんなはじめは1年生。でも2年目になったときに、1年生のままの人や2年生になった人、飛び級して4年生になってしまう人だっている。私は1年生だけど、飛び級して追い越して行っちゃうよ』という話をしました。そういう風に思って仕事をしないと、仕事って面白くならないんです」
また、片山社長は蔵人さんのキャリアについてもお話してくださいました。
「ウチは作りの時期が終わったらみんなを勉強に出します。他の蔵元さんのところとか、講習会とか。作りは1年に1回しかないので、今42歳の蔵人さんからすれば、60歳まで働くとしてもお酒を作れるのはあと18回。その一回を大切にして、技術を磨いて欲しいんです」
――そうですね。
「また、酒造では造りが始まる前に酒質を決めて、あらかじめ税務署に提出しなければならないんです。それもあと18回しかできない。だったらその年の課題をクリアしていかないともったいないじゃないですか」
その方針のもと、片山社長が打ち出したのが「杜氏制の廃止」と「社員制の導入」でした。
「優れた杜氏」ではなく「優れた指導者」を呼ぶことに
杜氏制を撤廃して社員制に切り替えるにあたって、従業員へのヒアリングを行っていた片山社長。その最中、あることに気がついたと言います。
「みんなNo.2でありNo,3だから、行動はするけど知識がないんです。例えば温度管理ひとつとっても、なぜそうするのかが分かっていない。『杜氏さんに言われたからこうしています』の一点張りでした」
この状況を打開するために、片山社長は技術指導をしてくれる方をお招きすることを考案。「ウチに足りないのは知識と経験だ」と分かると、そこを補ってくださる方を探す旅に出ます。その際中で、片山社長はBさんという杜氏さんの紹介で、頼れるベテラン杜氏のAさんに出会いました。
「Aさんは『もっとこの業界にいてくれ』と言われているお方で。なんとか口説き落として『まずはウチの酒蔵を見に来てください』とお願いたんです。はじめは『1年間だけ、週に何日でも良いから来ていただく』という内容で契約を結びました。そうしたら、その方が週に6日くらい蔵に足を運んでくださったんです」
その後、契約を延長してくださったAさんは、さらに1年間山の壽酒造の酒蔵を指導。今はAさんの後輩であり、片山社長にAさんを紹介したBさんが指導に入ってくださっています。良き指導者のもとで、山の壽酒造はこれからも限りなく前進を続けていくのでしょう。
8代目の片山社長が魅せるこれからの山の壽酒造
――たくさんの貴重なお話、本当にありがとうございます。最後に、これから山の壽酒造のどのような点に注目してほしいか、教えていただけますか。
「じつは、今すごく面白いことを考えていて、そうですね、ヒントと言ったら……。この業界はやり方がすべて決まっています。ベースのやり方が変わらないのは良いと思うんですが、例えば、お酒を絞る方法はほとんど決まっています。こういうのって違う発想をもってみてもいいんじゃないかなって」
――なるほど。
「調べてみたら、とある蔵元さんは実際に製造方法を変えていて、特許も取られていたんです。そこで、以前から交流のあった高い技術力を持つある会社の社長さんにご相談したら、『面白そうですね』って言ってくださって」
――おぉ、好感触ですね。
「私は『面白くないこと』をやりたくないんです。だけど、これまでは変に縛られていた。『女のくせに』ともたくさん言われたし、下に見られていました。でも杜氏制から社員制に変わったとき、『郁代さんは郁代さんのままでやってみたらいいやん』って言ってくださる方が増えてきて。あぁ、私って自由でいいんだ、って思えたんです」
片山社長は力強く、そして優しく続けます。
「今、お世話になっている方やこの業界に恩返しがしたい。私は東京農業大学の醸造科学科を出たわけではないし、すごく頭が良いわけでもない。じゃあ私に何ができるんだろう、って考えたときに、『つなげる』というのが一番しっくり来たんです。人と人をつなげて、それらが組み合わさったときに、とても面白いことが起こるんじゃないかな、って」
「だから、今後も山の壽は面白いことをしそうです」
――貴重なお話、誠にありがとうございました!
幼少期から「結婚」「お見合い」「門限」など、様々な制限に縛られていた片山社長。山の壽酒造を事業承継した後も、「女のくせに」などの言葉で縛られていましたが、「型に縛られない」という意識と、支えてくれる方々の助けもあって、自由に、自分らしくやっていいんだと自分を開放することができました。
取材の前後も明るく、朗らかに振る舞ってくださった片山社長。しかしその言葉は力強く、確かに通った太い芯を感じさせるものでした。「つなげる」ことを得意とする片山社長は、これからも山の壽酒造株式会社を――日本酒業界全体を面白さの輪でつなげてくれるでしょう。
山の壽酒造株式会社 代表取締役社長 片山郁代
1979年生まれ。環境・食・人の3拍子揃った福岡育ち。女子大を卒業後、ブライダル業界へ就職。26歳のときに山口合名会社(現在:山の壽酒造株式会社)に入社。「年に1つ改革を」をテーマに営業・総務・経理・造りを経て、創立200周年直前の2017年に代表取締役に就任。
現在は【goodtime with yamanokotobuki】をコンセプトに奮闘中。
座右の銘:「20歳の顔は自然から授かったもの。30歳の顔は自分の生き様。だけど50歳の顔にはあなたの価値がにじみ出る」――ココ・シャネル
山の壽酒造株式会社