豊かな経験と確かな技術を基盤に、プラント業界を”より”よくしていく施策を実施されている有限会社柳井工業の2代目である柳井寿栄様にお話を伺いました。

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創業44年を迎える有限会社柳井工業の事業概要についてお聞かせください。 

 柳井工業は私の父が創立した会社で、事業内容としては主に工場の機械、特にポンプやタービンといった「回転機」と呼ばれる機械のメンテナンスに特化しています。

 あまり目立たずマニアックですが、間違いなく世の中には欠かせない仕事ですね。

主にその支援対象としてやはり大分県の企業さんがメインとなるんですか。

 いえ、北海道から沖縄まで日本全国各地を対象としています。

 工場のメンテナンスというのは、つまりすべての生産をストップしてオーバーホールするということなので、何度も繰り返していたら当然赤字になります。なのでメンテナンスの周期としては、本当に4年に1回程度しか実施しないんです。

 それではもちろん大分の限られた工場のみを対象としていたら食べていけませんから、創業当時から仕事のために県外を飛び回っていますね。

ローコストハイクオリティーの実現など、貴社の強みについてお伺いしたいです。

 柳井工業の強みとして、他社よりも低コストで業界最高水準のクオリティを達成している(ローコストハイクオリティ)ということがあります。

 なぜかというと、先述したように各地を飛び回っている分、全国各地で同業とのネットワークがあり、どこからでも人を呼んでこれるからなんです。

 さらに柳井工業の社員には作業指揮者としてのマネジメントがあるため、動員した職人の方々と適格に連携し、ハイクオリティな作業を実施することができるんですね。

社員のフリーランス化を推奨されている背景をお伺いしたいです。

 これは元々、僕が入社したばかりのころの柳井工業でフリーランスとして働いている人が多く、そういう働き方を推奨したいと思い始めました。

 私が入社したのはもう15年ほど前になりますが、当時は現場に一人親方が溢れかえっていて、自分が行きたいと思った現場にしか行かないというスタイルを貫いていました。それは確かな技術があって、自分の仕事に誇りを持っているからこそできることなんです。

 ところが近年は高齢化もあって、そうした高い志を持って機械業界に入る人が少なくなってきてしまいました。

 ですので当社の社員となってもらうよりも、むしろ自分で技術を身に付けて働きたいときに働く、休みたいときに休む、といったやる気のある若い方に入ってきてもらいたいという想いを込めて、フリーランスを推奨しております。 

創業44年の歴史の中で、創業当時から現在までの事業の移り変わりについてご教示いただけますか。

 創業当時は機械の据付工事を主に手掛けていました。

 その当時はバブル崩壊直前で、日本全国が建設ラッシュに沸いており、土地があればどんどん工場を作ろうという気風がありました。ただいずれそのプラント業界バブルも弾けて工場が扶養になってきたので、そこで初めてメンテナンス事業に転換しました。

 メンテナンスは工場がある限りは絶対になくならない安定した事業です。

 ただそれも高齢化の波がやってきて、いつの間にか主力層が50、60代ばかりになってしまったので、現在は僕が入っていってマニュアル作成など後進育成の取り組みに努めています。

 それに伴って新事業として始めたのが太陽光ビジネスです。

 これは10年前の3.11に際して、原発の稼働停止と同時に再生可能エネルギーの買い取り制度(FIT)が打ち出されまして、当社としてもチャンスということで太陽光発電所を作り、今はその売電収入も入ってきています。

 太陽光の売電収入があると、条件が悪い現場を断ることができるなど会社としての余裕もできて、若手の定着率が上がるなどよい効果もあったので、事業としては成功と言ってよいでしょうね。 

どのような理由で東京に移住されたのですか。

 まず情報の獲得しやすさですね。

 特に太陽光ビジネスに参入したときは情報が重要になったのですが、大分と東京だと情報の入り方が段違いですし、それにやっぱり東京には上昇志向のある若い人が全国から集まってきますので、その期待も込めて現在は東京に移住しております。

前職では大手証券会社に勤務されていたと伺いましたが、家業に戻られるきっかけや決断に至った背景を教えていただけますか?

 きっかけは父親の病気ですね。

 元々私の父親は背中で語る古いタイプで、自分の家業のことなんて何にも話さない人でした。一方で私はとにかく都会でバリバリ働きたいという想いがあって、父も「お前の行きたいところに行け」という態度でしたので、最初証券会社に入社したんです。

 そしたらまもなく父が胃がんだということが発覚して、ステージ4だと伝えられたんです。そしてもう死別するかもしれないというときになって、初めてまったく親孝行できていない自分に気付きました。

 そこで柳井工業について調べてみると、純粋にとても良い会社だと思いました。証券マンとして決算書を見るのには慣れていたのですが、利益も出ているし税金も払っていて、改めて一から会社を作り上げた父への尊敬が生まれたんです。

 こうした経緯があって父とも改めて話すようになり、家業を継ぐことを決心しました。

学生時代から、将来的に事業承継を行うことを視野に入れて証券会社に入社されたのでしょうか。

 事業承継を視野に入れていたわけではありませんが、結果的に繋がって来た部分はあります。

 証券会社に入社した理由としては、まず生きるうえで絶対に必要なお金の知識が手に入るということ、そして証券が一番経営者の人と触れ合って現場の生の声が聞けるだろうと思ったことがありました。

 そして実際に中小企業の社長さんとお話して、悩みとしてすごく多かったのが事業承継のことなんです。

 うちの会社はM&Aも取り扱っていたのでそういうお話を伺うのも仕事の一つだったのですが、とにかく「息子が全然だめだ、ポンコツだ」と仰る人が多くて、承継させる側がどういう気持ちでいるかというのはそのときすごく分かったんですね。

 ですのでちょうど父親が病気となったときも色々相談させていただいて、結果的に事業承継の準備は進められたと思っています。 

柳井工業に入社された当初、証券会社からプラント業界という全く異なる分野に転職されましたが、最も苦労された点は何でしたか?

 一番苦労したのは、やはり工場の空気です。

 現場で汗水流して怒号を食らって、徹底的な上下関係に晒されて、現場のことがなにも分かっていなかった自分の薄っぺらさを痛感しましたね。

 大学に行くまでの勉強や、野球をやっていたときの上下関係とは比較にもならない世界で、社長の息子というだけで随分といじりも受けましたし、プライドを打ち砕かれた数年間でした。

アトツギとして入社されてから現在に至るまで、どのような取り組みをされてきたかお聞かせください。

 特に自分の中で大きな糧になったのが、SV(スーパーバイザー)としてシンガポールに派遣された経験です。

 当時シンガポールはかつての日本のような建設バブルで爆発的に工場ができていた時期で、私はスキルアップのために自ら志願しました。

 そのときはちょうど周囲のレベルが高すぎて、私が取り組む前に仕事が終わってしまい、日本ではいつまでたっても仕事を覚えられないと悩んでいた時期でもありました。

 さらに日本語が通用しない環境だということで「ピンチはチャンス」という思いもあって、実際に2年目までは信じられないほど辛いことが多かったのですが、3、4年目にもなるとようやく一端に人を使えるようになったんです。

 そして人を使えるようになるとすごく自信が付いてきて。もちろん技術が向上しても自信は付くのですが、そのときは初めて「社長の息子」ではなく僕自身を、しかも外国人の人たちが信頼してくれて、僕だからこそ一緒に働いてくれたんです。

 このときに初めて、会社でも跡継ぎとしてやっていけるだろうという自負を持てた気がしますね。

アトツギとして取り組んで良かったことをお伺いしたいです。

 会社の中で、父とは別の会社を作ったことでしょうか。

 私は父とは馬が合わないのですが、馬が合わないなりにも後継ぎとして尊重しなけれないけませんから、父と関係が深い協力会社はすべて父に任せ、それ以外の新規の取引先や協力会社はすべて私が管理するという、会社が二つある体制を構築しました。

 もちろんお互いが苦労しないためのアドバイスや協力は惜しみませんが、二つの会社での決定権は完全にそれぞれにある体制でした。

 このやり方は承継の前段階としてとても上手くいきましたね。

最後に、これから事業承継を考えているアトツギの方々に向けて、伝えたいアドバイスやメッセージをお願いいたします。 

 まず承継のコツとしては、父親に口を出し過ぎないことだと思います。親が作ってきた会社ですから、理不尽なことがあってもぐっと堪えてほしいなと。

 ただ事業承継は先代の協力がないと上手くいきませんから、親の顔を立てるのは前提としても自分に意識を向けさせなければいけないですし、そのためによく話し合わないといけません。結局はバランスですね。

 失敗するケースを聞いていると、本当に親子仲が悪くて話もしないという例もありますから、尊重を前提として意見を言い合える関係を築いてほしいです。